干拓についての私の記憶は、南総計画という名称が最も古い。朝のニュースで見た大漁旗をはためかせた大船団での地元漁民の抗議行動、震える手・震える唇・うつろな眼に涙を浮かべつつ彼らに嘆願する久保知事の姿、そして防災という錦旗のもとに干拓に合意し、しかし涙する漁民と、満面の笑みを浮かべて互いに固く手を交わす役人たち…。それだけを何故かおぼろげながら覚えている。ほとんど無関心であったが、奇妙な人間関係を垣間見た感じであった。高3の頃である。  長崎に帰ったのが6年前。すでに工事は始まっていた。秋、諌早に帰省する折り、両親を連れてシチメンソウを観に行く。今年が最後−と毎年訪れるにつれ、法的規制のない日本の干拓事業に対し「このままでいいのか?」といった感情が頭をもたげていった。

 私の運動とのかかわりは、昨年2月の干潟清掃が皮切りであった。明確な科学的裏付けのある行動ではなかった。また、自然環境をうんぬんする確固たる信念があった訳でもない。ただ明らかであったのは、この手の事業のほとんどがその内容を十分に議論されず主権者を無視した形で推進されており、行政を監理監督すべき国民の立場としてはそれを正すべき義務を負っていること、そしてささやかであっても自分の意見を具体的に表に出すべきであると思ったのである。

 破壊された自然環境を、後世への「負の遺産」と言う。私は、このような形で事業が進められるシステムこそ、後世に残すべきでない「負の遺産」であると、最近考えるようになった。

 *イサハヤ干潟通信第6号より転載*


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